「旅の終わり世界の始まり」を読み解いてみる(ネタバレあり)

「旅の終わり世界の始まり」という映画が上映されている。前田敦子染谷将太が出演しているのに、舞台がウズベキスタンなんて、これまた辺鄙な(褒め言葉)場所を選んだな、と興味を持っていた。中央アジア好きとして見ておかなければと意気込んで観てきたから、最近読んでいる宇野常寛ゼロ年代の想像力』を参照しながら読み解いていきたい。

 

ゼロ年代の想像力』が出版されたのは2008年。もう10年以上前の内容だから、現在の批評にキャッチアップできてないだろう。あくまでも個人的な批評の実習として書いていく。『ゼロ年代の想像力』を実践的に使ってみようというわけだ。

 

まず大まかなストーリーを説明する。1度映画館で観ただけなので、勘違いがあるかもしれない。この記事ではここで説明するストーリーに沿って読み解いていく。

 

ストーリーは起承転結にそって展開される。

 

(起) 葉子(前田敦子)はテレビ局に勤めるリポーター。「幻の怪魚」を追うテレビ番組の撮影のためウズベキスタンに来ている。(起)では葉子のキャラクターが描かれる。怪魚がいるとされる湖での撮影、チャイハナ(簡易レストラン)でのウズベキスタン食レポ、遊園地でのアトラクション体験、これらを通じて、葉子が「押し付けられた仕事を無難にこなす」「本当にやりたいことではないと思いつつ惰性で生きている」様子が描かれる。また、ひとりで食事をとろうとバザール(市場)に出かけるシーンももう一つのキャラクターを描き出す。マルトルーシュカ(乗合バス)に乗っているとき、隣のおじさんから話しかけられた葉子は、顔を歪ませてひたすら「NO」と返す。バザールで(日本人からみるとかなり強引な)客呼びに話しかけられても「NO」。言葉が違う、国が違う、人種が違う、そういうことを理由にして壁を作っている様子が、暗い雰囲気の絵によって強調される。道に迷っても他人に聞くことができず夜中まで歩き回ることになる。助けてもらうことができないから、大量の車が行き交う大きな道路を、まるで猫がそうするように、走って命からがら渡る。そんな葉子がひとりだけコミュニケーションを積極的にとる相手がいる。東京にいる海上の消防士をしている彼氏だ。海外の、それも辺鄙な国での心細さを埋めるように、ホテルに帰ると彼氏とメッセージをしてばかりいる。用事がなければホテルから出ない。

 

このように(起)は明るくはない。映像も全体的に色彩に欠いたものになっている。サマルカンドの街並みは美しいのだが、モスクの青さがもの悲しく感じる背景となっていた。葉子のネガティヴな感情をほのめかすようだ。

 

(承) 食事を買おうと外出していた葉子はコンサートホールを見つける。中に入ると、オペラの練習をしている。その歌声に葉子は聞き入ってしまう。その日はミーティングを欠席してしまう。翌日カメラマンと話していて愚痴をこぼす。本当にやりたいこととは違うとわかっているのに、テレビの仕事を続けていて意味が見出せない、と。葉子が目指しているのは「歌をうたう」ことであり、オペラを聴くことで自分が歌を歌えていないことを改めて自覚したのだろう。ウズベキスタンでの仕事を終えたらミュージカルへのオーディションがある。しかし、心を無にするように仕事を続けてきて「心がわからなくなった」。葉子曰く、「歌は心がないとうたえない」。

 

(転) カメラマンの提案で、葉子がカメラを回し自分が興味を持ったものを撮影することになった。このシーンの映像はとてもきれいだ。バザールで売られる様々な商品が画面に色をそえる。葉子も生き生きと走りまわり、映画を観ているこちらも楽しくなってしまう。葉子は夢中になってついには他の撮影隊とはぐれてしまう。それでも一人で撮影を続ける。しかし、突然警察に呼び止められ、なにかをまくし立てられる。訳も分からず、怖くなった葉子はその場から逃走する。さっきまでとは対照的に画面が暗くなる。バザールの地下に逃げこみ、さらにバザールを離れて水路のなかに逃げ込む。結局警察に見つかってしまい葉子は補導される。警察署でテムル(撮影班の通訳)が合流し、ようやく葉子はなぜ警察に追われたのかを知る。葉子は撮影禁止区域でカメラを持っていたため呼び止められたのだった。警察はただカメラのチェックをしたかっただけなのに、葉子が逃げたため追いかけないといけなくなった、と。そして、警察は「ウズベキスタン人がそんなに怖いのか、私たちと対話してほしい」と伝える。警察のお説教がおわり、ふとニュースをみると東京のコンビナートが火事になっている。まさか彼氏は巻き込まれていないだろうか。彼氏に電話をしてもつながらず葉子はパニックになってしまう。真夜中になってから彼氏から電話があり無事であったことを確認できた。

 

(結) 翌日ディレクターたちは一時的に日本に帰国したため、葉子とカメラマンと通訳だけで撮影を続けることになる。あいかわらず怪魚は獲れないと困っていたところに、山で奇妙な生き物を見たという情報をえる。そのUMAを撮影するために一向は山へ向かう。目の前に美しい風景が広がった。そこで葉子は思わず歌い出した。彼女は「心」を取り戻した。

 

ゼロ年代の想像力』の要旨

社会が保証してくれる「大きな物語」が失われ、個人が自分で「小さな物語」を選びとらないといけない。それがゼロ年代以降の社会の雰囲気だ。共産主義は冷戦に敗北し、「がんばれば報われる」時代だった高度経済成長がおわった。社会が自分の存在を認めてくれる物差しを用意してくれなくなった。そこで安易な物語に飛びつくものは、オウム真理教の発泡スチロールのシバ神を信奉するようになり、社会(=父)が認めてくれないのならなにもしないという「ひきこもりの思想」を描いたエヴァンゲリオンが流行した。90年代後半はそのような時代だったと『ゼロ年代の想像力』はいう。そしてゼロ年代に入り、「大きな物語」がないからといって何もしない訳にはいかない、という潮流が現れる。個人がそれぞれの「小さな物語」をもち、「小さな物語」はひとつのプラットフォーム上で並べられる。その結果、「小さな物語」同士がおたがいに正当性を主張しあうバトルロワイヤルが発生する。(『DEATH NOTE』、「Fate/stay night」、『リアル鬼ごっこ』などが代表例としてあげられる)。

 

私たちは、多様すぎる選択肢の中(中略)から無根拠を踏まえた上で選択肢、決断し、他の誰かと傷つけあって生きていかなければならない。(『ゼロ年代の想像力宇野常寛

 

そして、宇野はこの時代を乗り越えるための「コミュニケーション」のモデルを提示していく。と、これ以上詳しくはここでは触れない。ぜひ原著をあたってほしい。大事なのは、「小さな物語」が乱立するなかでどういうコミュニケーションをしていくことがバトルロワイヤル的結末以外の幸せな道を作っていくのか、という点だと思っている。この視点で「旅の終わり世界の始まり」を読み解いていきたい。

 

葉子のキャラクター

次に物語を通じて葉子がどういう人物であったのか整理する。まず(起)の部分からはじめ葉子がどういうキャラクターとして登場したのだろうか。(起)で描かれる葉子には大きく2つの特徴がある。ひとつは、同じ価値観を共有する人としかコミュニケーションを取らないというところ。もうひとつは、日常への(うっすらとした)絶望を持っているというところ。葉子は物語の前半では地元の人々と関わろうとしない。むしろ声をかけられても拒絶する。言葉が違う、国が違う、人種が違う、つまり「自分のいる島宇宙とは違う島宇宙にいる人」とは断絶するしか選択肢がない訳だ。これは葉子の撮影班との関わり方にも見いだすことができる。1日の撮影がおわると、他のクルーとは一緒に食事もしない。ただひとりでホテルにこもって彼氏とメッセージをする。

 

また、葉子は仕事をこなすが、あくまでも「無難」で「期待されるキャラクター」を演じているだけだ。そのビジネスライクな仕事の仕方について、葉子自身が(承)で語っている。今のままだと本当にやりたいこととどんどん遠ざかっていく気がする。でも日常を惰性的に生きていくしかない。惰性で生きているうちに「心がわからなくなった」。そんな諦めを語る葉子は、本当にやりたい「歌をうたう」ことができない。これが「日常への(うっすらとした)絶望感」

 

(転)をきっかけに葉子のこの2つの特徴が変化する。まず、「同じ価値観と人としかコミュニケーションを取らない」というところから見てみよう。葉子にとってウズベキスタン人は異なる人々だ。撮影班のスタッフともろくにコミュニケーションを取らない彼女は、ウズベキスタン人にはなおさらだ。そして、そのことが裏目に出て警察に追いかけられ補導されるという酷い目にあう。この事件のなかで、観客からするとあからさまにわかるように、葉子は「お説教」をされる。「なぜ私たちウズベキスタン人と対話しないのですか」と。この言葉は葉子の壁にひびを入れた。

 

次に、「日常への(うっすらとした)絶望感」がどう変化したのか、考えよう。これは明らかに「彼氏が死んだかもしれない」という突如現れた危機感に影響される。ぼんやりと「たぶんこの人と結婚するんだろうな」と考えていた彼氏。葉子がただ唯一連絡を取っていた彼氏。そんな終わりのない日常のループがつづくと思っていたのだが、東京湾火災によって「人はいつか死ぬんだ」という当然の事実を自覚する。結果的に彼氏は生きていたのだけど、惰性で生きていた日常が実はいつでも終わりうるという事実を葉子は発見したのだろう。つまり、葉子にとって「終わりのない(ゆえに絶望的な)日常」が「有限の(ゆえに充実した)日常」への質的に変化した。

 

いずれの特徴も、(転)の事件を境にして変化したことがわかる。ただ、この映画の限界は(結)での展開が示している。「同じ価値観の人としかコミュニケーションを取らない」葉子がウズベキスタン人に影響され「異なる人ともコミュニケーションを取る」となったのだが、それは「ウズベキスタン人によるUMA目撃情報を信じる」という形でしか描かれなかった。これは『ゼロ年代の想像力』で触れられる今の時代を生きるためのコミュニケーションとしてはかなり弱いモデルしか提示できていないのだろうか。「知らない人ともお話ししましょうね、信じましょうね」というような、共産主義運動家のいう「団結」と同じような理想論であり、今日に生きる私たちへの指針となるモデルではないのではないか。むしろ、原理的なものへの回帰、すなわち道徳という「大きな物語」を取り戻したということになるのではないか。

 

中央アジアが好きな執筆者としては、映像をすごく楽しむことができた。本文でも触れているように、場面に応じた絵を作れていたのは高い評価を受けるべきだ。ただ、物語の結末がありきたりな道徳論になってしまったのが残念かなと思う。

 

個人的な反省として、映像や美術部分への批評を全く読んだことがないことをあげておく。今回は映画のプロットを現代社会論から分析する練習をしたが、画面の構成などにも着目できればさらに人生は豊かになるのじゃないかな、とリマインダーを書き残し、ここで終える。